浦和福音自由教会(Urawa Evangelical Free Church)
330-0061
さいたま市浦和区常盤10-7-13
TEL.048-822-1478
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。マタイの福音書11章28節
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いのち■いのち (縦233cmX横88cm)

 礼拝堂ロビーにある4つのステンドグラスの第二番目には、「いのち」をテーマとしたステンドグラスがあります。一番上には聖書を表す書物のデザインの上に
「わたしはいのちのパンです」(ヨハネの福音書6章35節)のみことばがギリシャ語で記されています。このステンドグラスは、下の方から見るのが良いと思われます。一番下にはギリシャ語で「いのち」を表す「zωη」(ゾーエー)」ということばが記されています。全体的に見るならば、一番下には、「パン」が描かれており、一番上には、「水」があります。そして真ん中には、「ぶどうの木」と「羊」があります。植物と動物は、パン(食物)と水(飲み物)によって生かされていることを示しています。一番下には、緑のガラスが美しくデザインされている中に、白いものがいくつか表されています。これは、旧約聖書出エジプト記16章に記されている「マナ」です。これは、毎日のように荒野を旅するイスラエルの民のために、主が天から降らせた「パン」でした。彼らが40年間荒野を旅する間、主がずっと与えてくださったパンでした。「それで、主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということをあなたにわからせるためであった。」(申命記8章3節) 新約聖書には主イエスご自身が荒野で40日間断食した後、悪魔が主イエスに近づいて来て言ったことが記されています。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」これに対してイエスは答えられました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4章3〜4節) 主イエスは、「モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。」「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時にも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章32、35節)と言われました。つまり、まことのいのちのパンは、主イエス・キリストご自身であり、このパンを食するということは、主イエスを信じるということを意味しているのです。私たちは、肉体を養う食物だけではなく、「霊的な食物」をいただくことが必要です。それは、キリストを救い主として、心に迎え入れることから始まるのです。
 この「マナ」の上には、「羊たち」がいます。背景に描かれている山の麓にある牧草地で羊たちは、羊飼いに導かれ、守られ、養われています。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は、私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23篇1〜3節) 主イエスは、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10章10〜11節)と言われました。ステンドグラスの中の羊の一番下に少し色が暗い羊が描かれていますが、あるいはそれが羊のために、いのちを捨てた「神の小羊」「良い牧者」であるイエス・キリストを意味しているのかもしれません。神の小羊は、4枚目の「愛する」というテーマのステンドグラスにおいて、さらに明確に表されることになります。

 次に、「ぶどうの木」が記されています。旧約聖書においては、ぶどうの木は、神の民と言われたイスラエル民族を表しています。しかし、神が植えられたはずのぶどうの木は、良い実を結びませんでした。
「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ書5章1〜2節)イスラエルの民は、神の期待を裏切って、罪を犯し、神に逆らい続けたのです。 しかし、主イエス・キリストは、「わたしは、まことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15章1節)と言われました。神のひとり子イエス・キリストだけが、父なる神のみこころに従った生涯を送られた方です。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです。」(ヨハネ15章5節)「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストを信じ、キリストにつながっていれば、実を豊かに結ぶようになります。実を結ぶとは、神のことばを頭だけで理解するのではなく、実際の生活とその人の人格の中で実現することを意味しています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ人への手紙、5章22〜23節)
 最後の部分は、「いのちの水」です。水は人間や動物が生きて行くのに欠かすことができないものです。主イエスは
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4章13〜14節)と言われました。わたしたちは、心の渇きを癒すために、様々なものを求めてさまよっています。しかし、そのようなものは、決して私たちの心の渇きを癒すことはなく、返ってさらに激しい渇きをもたらすものなのです。私たちの心の渇きを本当に癒すものは、主イエス・キリストが与える水です。イエスは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネの福音書7章37〜38節) このいのちの水のデザインには、中央に十字架が描かれています。この十字架は、礼拝堂正面の十字架の背景になっているガラスと同じ素材が使われています。つまり、これらのステンドグラスと礼拝堂の十字架との深い関係を暗示しているのです。主イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪を負われたことを示しています。そして私たちが自分の罪を認め、悔い改め、そして十字架にかかられたイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れることによって、私たちの罪が赦され、神の子とされ、そして永遠のいのちを得ることができ、心に聖霊を受けることを意味しているのです。「生ける水」のデザインは、「水色」だけではなく、「黄色」「だいだい色」「赤色」つまり、「いのち」を表す色が用いられ、そしてそれらが組み合わされることによって、十字架の中心部から泉のように、こんこんと「いのちの水が」湧き出し、溢れている様子を描いています。

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