2021年8月22日(第34号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 小室正彦兄 | |
第2礼拝司会 : | 宮崎雅之兄 | |
奏 楽 : | 三友庸子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 (会衆賛美) | |
祈り | ||
賛美 | 298番 (黙想) | |
聖書 | ヨハネの福音書3章16~17節 | |
牧会祈祷牧師 | ||
説教 | 「神の愛と痛み」牧師 | |
献金 | 聖歌392番 (黙想) | |
頌栄* | 賛美歌541番 (会衆賛美) | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「神の愛と痛み」
牧師 坂野慧吉
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 (ヨハネの福音書3章16節)これほど、「神の愛」を簡潔に記している「みことば」はないのではないかと思う。「神は愛です。」 (ヨハネ第一の手紙4章16節)とあるように、神の本質が「愛」なのである。それは、父、御子、御霊の三位一体の神が互いの関係性において、愛であることを意味している。この愛の神が、「世」を愛された。この「世」とは、この世界に住む人間を意味している。この世は、罪と汚れに満ちている。神は義なるお方であり、罪を裁かざるを得ない聖なるお方である。しかし、神はこの「世」を愛された。ここに「神の痛み」が生まれる。その具体的な現れとして、神は「そのひとり子」を世に与えられたのである。
神が御子を世に与えられたということは、御子を世に明け渡したということである。その結果、「世」は、罪なき神のひとり子イエス・キリストを十字架につけて殺したのである。このキリストの十字架の死こそが、「神の痛み」の極みである。御子は自分からすすんで、十字架の上で、「世の罪」を負われていのちを捨てられたのである。そして御子は父の栄光の力によって、三日目に死から復活された。
この「御子」を救い主として信じる者が永遠のいのちを得るのである。