3階礼拝堂のロビーには4枚の大きなステンドグラスがあります。また1階から3階に続く階段に沿って、10枚の小さなステンドグラスが配されています。
礼拝堂のロビーの4つのステンドグラスは、旧約聖書に預言されたメシヤ(キリスト)として、この世に来られたイエス・キリストを表しています。それは「ことば」「いのち」「ひかり」「愛する」というテーマになっています。そしてこれらは、新約聖書の「ヨハネの福音書」のテーマでもあります。ですから、これらのステンドグラスのテーマとなっている聖書のことばは、すべてヨハネの福音書から引用されています。これら4つのステンドグラスの一番上には、「本」のかたちをしたものがあります。これは聖書です。そしてそこに聖書のみことばがギリシャ語で記されています。一番下のところにも、やはりギリシャ語のことばが記されています。それは、そのステンドグラスのテーマとなることばです。これらのステンドグラスの意味について聖書の観点から説明いたします。
第一のステンドグラスには、「ことばは人となった」(ヨハネの福音書1章14節)と上部に記されています。そしてこのテーマは、「ことば」です。ヨハネの福音書は、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という文で始まっています。「ことば」は御子をさしています。つまり、御子は永遠であり、御子は三位一体の神であり、父と共に交わりをもっていることを示しています。聖書にご自分を啓示された神は、父、御子、聖霊の三人格において存在される唯一の神なのです。
そして、「すべてのものは、この方によって造られた」のです。(ヨハネ1章3節) コロサイ人への手紙においてパウロはさらに詳しく述べています。「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの・・・すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(1章16~17節)
御子によって創造されたものの中心は、「人間」です。神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と言われて、人を神のかたちに創造し、男と女に創造された。」(創世記1章26~27節) 階段のステンドグラスにあるように、神は彼らをエデンの園に置かれました。しかし、彼らは神の戒めを破り、エデンの園から追放されてしまったのです。
神は、この人類を救うために、長い時間をかけて準備され、そしてやがて御子を救い主としてこの世に送られました。それがイエス・キリストです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は惠みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1章14節)
ステンドグラスの左上にある丸いかたちの赤いものは、「ことば」を表しています。それが処女マリヤを通して人となられたことを表しているのが、右下の小屋です。そこには、牛や馬が画かれています。そこには人となられた「御子」の姿は画かれていません。しかし、マタイの福音書2章に出てくる博士たちを導いた「星」が流れ星のように画かれており、その色と小屋の色を一致させることで、御子がそこに眠っていることを暗示しているのです。
また画面の中心には、三十歳になったとき、洗礼を受けられた主イエスの姿があります。そして主イエスが洗礼を受けられたヨルダン川の流れが生き生きと画かれています。さらに主イエスのあたまの上には、「神の御霊がはとのように下って」いる様子を見ることができる。そして先ほど説明した「ことば」がもう一度その役割を果たしています。「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」(マタイ3章17節) これは父なる神の声です。三位一体の神が同じときに現れてくださった瞬間です。
「ことばは人となった」つまり、神の御子が完全な人となった。これは「受肉」と言われます。この目的は何か。
第一は、目に見えない神を表すためです。「いまだかつて神を見たものはいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1章18節)
第二は、人間の罪の贖いのためです。主イエスの洗礼(バプテスマ)は、本来罪のない主イエスは受ける必要のないものでした。しかし、父なる神のみこころにしたがって、主は洗礼を受けられました。それが私たちに模範を示すためであるとともに、この謙遜が十字架にまでつながっていることを、私たちは知らなければなりません。罪のないお方が私たちの身代わりに十字架で死なれたのです。「しかし、定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、律法の下にある者となさいました。これは、律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」(ガラテヤ書4章4~5節)
第三は、人間として生きる道を示すためです。「キリストも苦しみを受け、その足跡にしたがうようにとあなたがたに模範を残されました。」(第一ペテロ2章21節) 主イエスの愛に満ちた聖なる謙遜な人格とことばと行動は、私たちが模範とすべきものでありました。
第四は、私たちのとりなしをするためです。人となられたキリストは、「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。」(ヘブル4章15節) 人としての苦しみ悩みを経験されたキリストは、私たちの弱さをよく理解し、同情し、とりなしてくださる方なのです。
第五は、死と悪魔を滅ぼし、勝利を得るためです。「そこで子たちはみな血と肉とをもっているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これはその死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2章14~15節)
第六は、真の人間性の回復のためでした。イエス・キリストは死より復活され、朽ちないからだによみがえられました。それは、私たちもキリストにあって復活し、朽ちないからだをいただいて、永遠に新天新地において神に仕え、神のみこころにしたがって生きるためです。(第一コリント15章50~58節)
このように、第一のステンドグラスが意味していることは、実に深い意味をもっているのです。
礼拝堂ロビーにある4つのステンドグラスの第二番目には、「いのち」をテーマとしたステンドグラスがあります。一番上には聖書を表す書物のデザインの上に「わたしはいのちのパンです」(ヨハネの福音書6章35節)のみことばがギリシャ語で記されています。このステンドグラスは、下の方から見るのが良いと思われます。一番下にはギリシャ語で「いのち」を表す「zωη」(ゾーエー)」ということばが記されています。全体的に見るならば、一番下には、「パン」が描かれており、一番上には、「水」があります。そして真ん中には、「ぶどうの木」と「羊」があります。植物と動物は、パン(食物)と水(飲み物)によって生かされていることを示しています。一番下には、緑のガラスが美しくデザインされている中に、白いものがいくつか表されています。これは、旧約聖書出エジプト記16章に記されている「マナ」です。これは、毎日のように荒野を旅するイスラエルの民のために、主が天から降らせた「パン」でした。彼らが40年間荒野を旅する間、主がずっと与えてくださったパンでした。「それで、主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということをあなたにわからせるためであった。」(申命記8章3節) 新約聖書には主イエスご自身が荒野で40日間断食した後、悪魔が主イエスに近づいて来て言ったことが記されています。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」これに対してイエスは答えられました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4章3~4節) 主イエスは、「モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。」「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時にも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章32、35節)と言われました。つまり、まことのいのちのパンは、主イエス・キリストご自身であり、このパンを食するということは、主イエスを信じるということを意味しているのです。私たちは、肉体を養う食物だけではなく、「霊的な食物」をいただくことが必要です。それは、キリストを救い主として、心に迎え入れることから始まるのです。
この「マナ」の上には、「羊たち」がいます。背景に描かれている山の麓にある牧草地で羊たちは、羊飼いに導かれ、守られ、養われています。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は、私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23篇1~3節) 主イエスは、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10章10~11節)と言われました。ステンドグラスの中の羊の一番下に少し色が暗い羊が描かれていますが、あるいはそれが羊のために、いのちを捨てた「神の小羊」「良い牧者」であるイエス・キリストを意味しているのかもしれません。神の小羊は、4枚目の「愛する」というテーマのステンドグラスにおいて、さらに明確に表されることになります。
次に、「ぶどうの木」が記されています。旧約聖書においては、ぶどうの木は、神の民と言われたイスラエル民族を表しています。しかし、神が植えられたはずのぶどうの木は、良い実を結びませんでした。「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ書5章1~2節) イスラエルの民は、神の期待を裏切って、罪を犯し、神に逆らい続けたのです。 しかし、主イエス・キリストは、「わたしは、まことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15章1節) と言われました。神のひとり子イエス・キリストだけが、父なる神のみこころに従った生涯を送られた方です。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです。」(ヨハネ15章5節)「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストを信じ、キリストにつながっていれば、実を豊かに結ぶようになります。実を結ぶとは、神のことばを頭だけで理解するのではなく、実際の生活とその人の人格の中で実現することを意味しています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ人への手紙、5章22~23節)
最後の部分は、「いのちの水」です。水は人間や動物が生きて行くのに欠かすことができないものです。主イエスは「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4章13~14節)と言われました。わたしたちは、心の渇きを癒すために、様々なものを求めてさまよっています。しかし、そのようなものは、決して私たちの心の渇きを癒すことはなく、返ってさらに激しい渇きをもたらすものなのです。私たちの心の渇きを本当に癒すものは、主イエス・キリストが与える水です。イエスは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネの福音書7章37~38節) このいのちの水のデザインには、中央に十字架が描かれています。この十字架は、礼拝堂正面の十字架の背景になっているガラスと同じ素材が使われています。つまり、これらのステンドグラスと礼拝堂の十字架との深い関係を暗示しているのです。主イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪を負われたことを示しています。そして私たちが自分の罪を認め、悔い改め、そして十字架にかかられたイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れることによって、私たちの罪が赦され、神の子とされ、そして永遠のいのちを得ることができ、心に聖霊を受けることを意味しているのです。「生ける水」のデザインは、「水色」だけではなく、「黄色」「だいだい色」「赤色」つまり、「いのち」を表す色が用いられ、そしてそれらが組み合わされることによって、十字架の中心部から泉のように、こんこんと「いのちの水が」湧き出し、溢れている様子を描いています。
礼拝堂ロビーの第3番目のステンドグラスのテーマは、「ひかり」です。 「このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1章4~5説) 創世記に記されているように、「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。(創世記1章2~4節) はじめに神がみことばによって創造されたのは、「光」でした。光が創造された時、光のあるところには「やみ」はなくなりました。光とやみとは神によって区別されて、互いに交わることがありません。ヨハネの福音書では、「ことば」に「いのち」があり、この「いのち」は「人の光」であった、と書かれています。つまり、この「ひかり」は神であるキリストご自身のことです。そしてこの「光」であるキリストは、やみに打ち消されることなく、「やみの中に輝いている」し、やみはこの「光」なるキリストに打ち勝たなかったと言われています。ここでは、創世記よりもさらに進んで、「光」はキリストを表し、「やみ」は神に敵対する勢力を表しています。イエスは、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)と言われました。ここでは、光はキリストを意味し、やみは罪を指しています。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」(第一ヨハネ1章5節)「神は光である」ということは、神は聖なる方、神は「暗いところが少しもない」、「透明な」お方であるということです。
「光」のステンドグラスを見ると一番上には、聖書をかたどったものの上に、「わたしは世の光である」というみことばが記されています。そして左の下を見ると「やみ」を表す黒い不透明なガラスがはめられています。「光」と「やみ」とが対照的に置かれているのです。さらに、その隣接した部分には、黒い模様のついたガラスがあり、さらにその先には黒い色をした半透明のガラスがあります。これは、やみとその力が周囲に及ぼしている影響を表しています。しかし、それは小さく限られた範囲でしかありません。「やみ」は「光」に打ち勝たなかったのです。
「光」のステンドグラスの中心に、「さかな」をデザインした部分があります。「さかな」はギリシャ語で、「イクスユス」といいます。「イエス・キリスト、神、御子、救い主」のそれぞれのギリシャ語のかしら文字をつなげると「イクスユス」つまり「さかな」の意味となるところから、「さかな」が「イエス・キリスト」のシンボルとされるようになりました。だから、このステンドグラスの中心にある「さかな」は「イエス・キリスト」を表しています。
この「さかな」つまり「イエス・キリスト」が「世の光」です。この「さかな」つまり「イエス・キリスト」の中にあるガラスはすべて「透明」です。透明なガラスや様々な黄色やオレンジ色があり、これらは「光なるキリスト」のもつ様々な豊かさを表していると思われます。 第一に、光は暗闇を照らします。つまり、人間の持つ罪を明らかにします。 第二に、光はやみを追い払います。人間の罪を解決してくれます。 第三に、光は道を示します。私たちが進むべき方向を示してくれます。第四に、光は、やみの業(サタンの策略)を明らかにします。そしてそのやみの業を打ち破ります。第五に、光は将来に希望を与えます。私たちにキリストの最終的な勝利を信じさせてくれます。実は、私自身は気がつかなかったのですが、ある兄弟が教えてくれたのは、この「さかな」の中心部分に、「小さな十字架」があるというのです。この十字架こそがやみの中で輝く光なのです。そして、この「さかな」の中にある「黄色」や「オレンジ」は「さかな」の外にも広がっています。これは、「光なるキリスト」の「光が」この世に広がって行く様を描いています。右下の緑の植物は、「光」によって生きる「いのち」を表しています。
私たちは、この「光」のステンドグラスを通して何を見るのでしょうか。 第一は、「わたしは世の光である」と言われた、イエス・キリストを見せていただきたい。このステンドグラスを見続けてゆく中で、そこに新しく、より深く私たちを愛してくださるキリストの御顔を拝することができるようになります。 第二には、このステンドグラスを通して、私たちの心を見たい。私たちの心にある「やみ」とキリストの光に照らされて、赦され、癒された自分のこころを見続けたい。 そして第三に、このステンドグラスを通して、他の人々と、この「世」を見続けたい。 ステンドグラスは、不思議です。そして奥行きが深い。見る人の心、外の風景、季節によって、今までとは全く異なったものが見えてくるのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、そのようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節
礼拝堂のロビーの4枚のステンドグラスは、「ことば」「いのち」「ひかり」そして最後に「愛する」というテーマのもとに作成されたものです。 「ことば」「いのち」「ひかり」である主イエス・キリストが弟子達に最後に残された命令は、主が私たちを愛されたように、互いに愛し合うことでした。このみことばがステンドグラスの一番上に聖書のことばとして記されています。そして一番下には、「愛する」という意味の「アガパオー」というギリシャ語が記されています。下の右端をみると植物がありますが、これはおそらく「しゅろ」の葉であろうと思われます。主イエスが十字架にかかるためにエルサレムに入城した時、人々がしゅろの木の枝を取って主イエスを迎えたことを意味しています。このようにして主イエスを歓迎した人々は、やがてこの主を十字架につけるように要求するようになるのです。
このステンドグラスの中央には、「小羊」が描かれています。これは主イエス・キリストを表しています。主イエスの伝道の生涯の初期のころ、バプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられました。主が再びヨハネのところに来られた時、ヨハネは主イエスを見て、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と語りました。この小羊のさらに上には、Α(アルファ)というギリシャ語の文字があり、下の方には、ωという文字があります。これはギリシャ語のアルファベットの最初の文字と最後の文字です。主イエスが、 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」(ヨハネ黙示録20章6節)と語られたことを表しています。主イエスは初めからおられたお方であり、いつまでもおられるお方であること、永遠のお方であることを意味しています。「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」(ヨハネ黙示録1章8節)
さらに小羊が描かれている周囲の四角の中には、縦7個、横7個の美しいガラス玉がはめ込まれています。「7」という数字は完全数であり、「神の完全性」を表しているということができます。このことにより、小羊は神であり、完全なお方であることが分かります。さらに、小羊のすぐ左上を見ると、そこに十字架が記されています。これは、永遠のお方であり、完全であり、罪のない神の御子が人となられ、罪人の身代わりに十字架で死なれたことを表しています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口になんの偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2章24節)
さらにこの小羊が描かれている四角の周りには、12の窓があります。この12の窓は、「イスラエルの12部族」または、「キリストの12使徒」を示しています。つまり、神の民、神の教会を表しています。 この窓は一つひとつの模様が異なっています。このことによって、神の民の多様性、キリストの教会が様々な賜物や特徴をもっている人々によって構成されていることを意味しています。この教会を表す窓の真ん中に、「十字架につけられた神の小羊」が存在することによって、神の御子イエス・キリストの十字架の身代わりの死による贖いとキリストを信じる信仰によって教会が建てられているのだということが強く自覚されるのです。そして周囲の曲線は、12の窓を通して、つまりキリストの教会を通して、キリストの愛がこの世に伝えられて行く様子を表しているのです。
最後に、Αとωは、最初と最後を表すとともに、Αγαπαω(愛する)というギリシャ語の動詞を表しています。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うとき、「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13章35節) 「ことば」「いのち」「ひかり」「愛する」というステンドグラスをじっと見てから、礼拝堂に入るとそこに「十字架のステンドグラス」が目に入って来ます。
初めに、神が天と地を創造した。(創世記 第1章1節)
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記 第1章3節)
神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。(創世記 第1章11節)
神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。(創世記 第2章8節)
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記 第3章24節)
鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。(創世記 第8章11節)
わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。----あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。
(出エジプト記 第20章2~17節)
そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」(申命記 第34章4節)
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。
主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、
その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、
賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深く
その恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。
(詩篇 第100篇)
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ書 65章17節)
「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6章14節)
十字架はキリスト教会のシンボル
キリストは、今から2000年近く昔に十字架に付いて死なれました。十字架はローマ帝国の死刑の道具でした。神の御子が人となられ、33年の生涯を送られ、そして何の罪も見出されなかったのに、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとで死刑の判決を受けて十字架にかかり、ご自分のいのちを捨てられました。そして三日目に復活されました。初代の教会の時代から「十字架」はキリストのシンボル、教会のシンボルでした。それはこの十字架の上で私たちの罪を贖うために、キリストが死なれたことを示し、またキリストを信じる者が十字架を負ってキリストに従うことを意味しています。
浦和福音自由教会の礼拝堂の十字架
礼拝堂の十字架のステンドグラス 浦和福音自由教会の礼拝堂の正面には大きな十字架のステンドグラスがあります。これは礼拝堂のコンセプトである、「ことば」「いのち」「ひかり」を礼拝堂全体として設計されたものの一部を構成しています。上から注がれる光に背後から照らされて、礼拝者にひかりを注いでいます。
まず、十字架の背景になっているガラスに付いて考えてみます。これは二種類のガラスが張り合わされています。ひとつは縞々のガラス、そしてもう一枚は、波型の模様をしたガラスです。上から背後から注がれた光は、この二枚のガラスを通して、美しくやわらかく、私たちを包み込むように注がれて来ます。ロビーの「いのち」のステンドグラスの中の「いのちの水」の上に架かっている「十字架」の素材は、礼拝堂の十字架の背景にある波型のガラスと同じものが使われています。このことによって、ロビーのステンドグラスと礼拝堂のステンドグラスがつながって来ます。
さらに十字架そのものを見てみましょう。その基本的な素材は、象牙色のガラスです。これは、ロビーの四枚のステンドグラスのそれぞれの一番上にある「みことば」の背後に描かれている「聖書」と同じ素材が用いられています。このことは、エマオに向かう二人の弟子たちに復活の主イエスが、「キリストは必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」と語って、聖書全体の中から、キリストご自身について語られたことを思い起こさせます。聖書の中心は、イエス・キリストであり、イエス・キリストの十字架と復活です。
次に、この十字架を見ると、両手、両足、そして脇腹の位置に小さい円が五つ記されています。これは、主イエスが十字架に架かられた時に受けた「傷」を表しています。そして12個の四角い「赤」とその内側にある小さい12個の「赤」は、イエスのいのちと十字架で流されたイエス・キリストの血潮を表しています。西欧などの古い教会の礼拝堂の正面には、十字架のキリスト像が掲げられています。またある教会では「聖画」が掲げられています。もちろんこれらは、礼拝の対象ではなかったはずです。しかし今では、十字架そのものが偶像として礼拝されている危険性があります。ステンドグラスだから大丈夫であるとは言い切れませんが、この十字架はシンボルです。多くの十字架像が、キリストの十字架の姿を苦しく、痛ましく、そして悲しく作られているのは、人間の罪の大きさとキリストの苦しみの大きさを深く自覚するためであると思われます。しかし、浦和福音自由教会の礼拝堂の十字架は、キリストの苦しみを表しているとともに、キリストの復活の栄光を表しているということができます。それはひとつには、十字架を縁取っているうすい金色のガラスです。金はソロモンの神殿にも使われた素材で、神の聖、神の完全さを表すものでありました。つまり十字架は、神のご計画であったということです。さらに、背後の光に照らされた十字架を見ることにより、キリストの復活を、つまり十字架につけられたキリストご自信が復活されたことを、その栄光を見ることができるのです。十字架の光を通して、私たちは神の愛と神の聖とキリストの十字架の贖いを知り、その光の中で自分の罪をさらに深く知ることができるのです。
最後に十字架の中心にある「青」を見てみたい。この「青」は、この教会の他のステンドグラスにはどこにも使われていないブルーです。二枚の異なる「青」を使った、奥行きを感じさせる「青」です。「永遠のブルー」と言うことができると思います。つまり、永遠の神のみこころは、キリストの十字架によって成就したということと、私たちは罪を悔い改めて、キリストの十字架を信仰をもって仰ぐ時、「父、子、聖霊」の三位一体の永遠の神と交わることがゆるされるということを意味しています。
ちなみに、この大きなステンドグラスは、洗礼式の時に、十字架の下の部分が両側に開かれ、会衆は洗礼式の様子を見ることができ、喜びに与ることができます。洗礼を受ける者たちは、キリストの十字架の下を通って、洗礼を受けることができます。私たちは、この十字架を仰ぎつつ、キリストの十字架に表された神の愛を心に刻みながら、復活されたキリストの姿にふれて、三位一体の神を礼拝する者たちでありたいと思います。