2020年1月12日(第2号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 臼倉和弘兄 | |
第2礼拝司会 : | 櫻井利一兄 | |
奏 楽 : | 三友庸子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
主の祈り | 週報をご参照ください | |
賛美* | 66番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 298番 | |
聖書 | ローマ人への手紙9章14~29節 | |
説教 | 『あわれみの器』齊藤副牧師 | |
献金 | 333番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「あわれみの器」
副牧師 齊藤 耕
神の主権は、「あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」これは、出エジプト記の引用で、偶像崇拝に陥り滅ぼされて当然であったイスラエル人に与えられたみことばである。また、エジプトの王ファラオは心を頑なにして、奴隷であったイスラエル人をなかなか解放しようとしなかったが、神はあわれみによって彼を立てつづけ、これをさばくことによって、その力を全地に知らしめた。但し、ファラオを頑なにされたのも神であることを知るならば、私たちは、主を恐れることをも覚えるだろう。 しかし、神の主権がすべてを定めているならば、人は責めを負うことがあるのだろうかと疑問がわく。そこで、パウロは神と人との関係を、陶器師と器に例えて教える。当然、器はどのような物に作られても陶器師に文句を言わない。そもそも語れない。神に対して人とはそのようなものだ。 けれども、パウロが言いたいのはここからである。その様な人間であり、罪のゆえに神の怒りにふれ、滅ぼされて当然の「怒りの器」のような存在であったにもかかわらず、神が豊かな寛容を持って耐え忍ばれ、ご自身の栄光を現されるために、私たちを「あわれみの器」としてくださっているのだとしたら、なんと大きな恵みなのだろうか。この恵みは、異邦人にまで及び、実に、私たちに及んでいるのである。 「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。」(参照:ホセア書)