2020年2月23日(第8号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 臼倉和弘兄 | |
第2礼拝司会 : | 小澤雅信兄 | |
奏 楽 : | 神野真理姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
交読文 | ヨハネの福音書15章1~12節 | |
賛美* | 11番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 298番 | |
聖書 | ローマ人への手紙 | |
9章30節~10章13節 | ||
説教 | 『ここに救いがある』齊藤副牧師 | |
献金 | 291番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「ここに救いがある」
副牧師 齊藤 耕
イスラエルの人々は神に対して熱心であったが、それは、救いに至る真の知識に基づくものではなかった。彼らは、神の義を知らずに、自分自身が律法を行うことによって義を立てようとし、神の与えてくださる義に従わなかったのである。本来は、律法が目指すものはキリストであった。律法の掟によって生きようとするならば、むしろ、罪が自覚させられるのだからキリストを信じる信仰に導かれるはずであった。しかし、彼らは「つまずきの石につまずいた」のである。
一方、救いに至る真の知識はこうだ。キリストは、天から下り人となられて、私たちの罪を負って十字架に死に、三日目によみがえられて救いのみわざを成し遂げられたのである。その上、誰が天に上り救いの真理を求め、又、誰が深み(よみ)に下り救いの真理を得ようとする必要があるだろうか。そもそも、そのようなことは人間にとって実現不可能である。私たちは、既に宣べ伝えられている信仰のことばに寄り頼み、「イエスは主である」と告白し、「神はイエスを死者の中からよみがえらせた」と信じるならば、それによって救われるのである。
聖書はこう言っている。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」この地上に生きる生涯においても、自分の力に寄り頼むのではなく、主に信頼するときに、御救いの恵みを覚えながら、平安のうちを歩むことができる。