2020年8月23日(第34号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 五十嵐正俊兄 | |
第2礼拝司会 : | 小室正彦兄 | |
奏 楽 : | 神野真理姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番(会衆賛美) | |
祈り | ||
聖書 | ヨハネの福音書3章16節 | |
牧会祈祷牧師 | ||
説教 | 「神は実にそのひとり子を」牧師 | |
献金 | 298番(黙想) | |
頌栄* | 賛美歌541番(会衆賛美) | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「神は実にそのひとり子を」
牧師 坂野慧吉
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」このみことばは、クリスチャンならだれでも知っているみことばである。しかし、あまりに慣れすぎて、感動も、驚きもなく、なんとなく覚えていることはないだろうか。
「神は愛です」(ヨハネの手紙第一4章16節)と記されているように、神の本質は愛である。御父と御子と聖霊の三つの位格を持ちつつ、唯一の神は、互いに愛の交わりの中におられる。この三位一体の神は、「世を愛された」のである。「世」とは私たち罪を犯した人間のことである。神は義なる神であるので、罪人をさばくお方である。その神が罪人を愛するとき、神は「痛み」を覚えられる。その痛みの極みが、イエス・キリストの十字架である。イエス・キリストの十字架の「傷」である。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という「御子の叫び」、そして「御父の沈黙」に見られる「神の痛み」である。これが、「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」ということなのである。
ペテロはイザヤ書53章から引用して、「キリストは自ら十字架の上で私たちの罪をその身に負われた。・・・その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された」(ペテロの手紙第一2章24節)と記している。
私たちは、驚きと感動と悔い改めをもってこのみことばを心に刻みたい。