2021年3月28日(第13号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 臼倉和弘兄 | |
第2礼拝司会 : | 梅田典晃兄 | |
奏 楽 : | 峯 弥生姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 (会衆賛美) | |
祈り | ||
賛美 | 298番 (黙想) | |
聖書 | ガラテヤ人への手紙6章14~15節 | |
牧会祈祷牧師 | ||
説教 | 「十字架を誇りとして」齊藤副牧師 | |
献金 | 271番b (黙想) | |
頌栄* | 賛美歌541番 (会衆賛美) | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「十字架を誇りとして」
副牧師 齊藤 耕
ガラテヤの教会において、異邦人クリスチャンたちに割礼を強いるユダヤ主義者たちがいた。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いを認めていたが、それだけでは十分でなく、律法の行いも必要だと説く者たちだ。彼らは、教会をかき乱し、異邦人クリスチャンの成長を妨げていた。これは、ユダヤ教徒による妨げではない。キリスト教会の中の問題であり、時代を越えて常に私たちにつきまとう課題である。つまり、律法主義的信仰。キリストを信じてはいながらも、その頼るところは自分の「行い」、「経歴」、「肩書」、そして、自分の「持てるもの」である。それはユダヤ主義者と同様、『外見を良くしたい』、『キリストの十字架のゆえに迫害されたくない』(6:12)という肉を誇る思いだ。
使徒パウロは、『私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。』(6:14)と述べている。これは、パウロの告白であり、自らに語りかける願いであろう。彼には、肉においても頼れるところが人一倍あった。しかし、キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、それらを損と思うようになったと言っている(ピリピ3:8)。肉の思いに妨げられることなく、いよいよキリストにある者として生かされることを願うからだ。
私は、肉において頼れるところがないものであることを認める。そんな私でさえ肉を誇る思いがあるのだから情けない。しかし、主イエス・キリストは、そんな私の為に十字架に死んでくださった。本当に十字架だけが私の誇りだと思う。