2021年8月8日(第32号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 横田 眞兄 | |
第2礼拝司会 : | 黒羽 徹兄 | |
奏 楽 : | 神野真理姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 (会衆賛美) | |
祈り | ||
賛美 | 298番 (黙想) | |
聖書 | ヨハネの福音書3章16~21節 | |
牧会祈祷牧師 | ||
説教 | 「ひとり子の神を見れば」 | |
喜多副牧師 | ||
献金 | 257番 (黙想) | |
頌栄* | 賛美歌541番 (会衆賛美) | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
洗礼式 (第2礼拝後) | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「ひとり子の神を見れば」
副牧師 喜多大樹
主イエスとニコデモの語り合いは最後の局面を迎える。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」幾度となく耳にしたかもしれない、この神のことばは今朝の私たちにどう届くだろうか。
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この箇所において、ただ一つ心に留めたいのは、「神は愛された」という出来事についてである。御父が、「世」――すなわち「この私」――を愛している。このことについて私は力を尽くしたい。私たちはこのあまりにも純粋な神の告白について何を知っているだろうか。どのようなかたちでそれを今日まで受け取ってきただろうか。
神から愛されているという真実について語り合う時、私たちはイエス・キリストを他にしてそれを語ることなどできないと思う。神の愛情は、「イエス・キリストを私に与える」という出来事を通して現わされた。私の人生に日々起こってきた神の情熱は、主イエスの出来事によって確信を得る。むしろ、十字架の主を見なければ、私は「私」が愛されていることを真に理解することができないとも言える。
父のふところにおられたひとり子の神に目を転じてみる。そこには、なぜこのお方は世に遣わされなければならなかったのかという真理が光を放っている。――どうして神はこのようなかたちでご自身の愛を示されたのか――この異形の光は、私たちに向かって発せられている。私こそが、御父にそのひとり子を天から地へと向かわせた理由だからだ。
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「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 (第一ヨハネ4章10節)