2021年9月19日(第38号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 横田 眞兄 | |
第2礼拝司会 : | 宮崎雅之兄 | |
奏 楽 : | 臼倉ゆり子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 (会衆賛美) | |
祈り | ||
賛美 | 298番 (黙想) | |
聖書 | ヨハネの福音書3章16~21節 | |
牧会祈祷牧師 | ||
説教 | 「ひとり子の神を見れば (2)」 | |
喜多副牧師 | ||
献金 | 257番 (黙想) | |
頌栄* | 賛美歌541番 (会衆賛美) | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「ひとり子の神を見れば (2)」
副牧師 喜多大樹
私たちに対する神のみこころは示された。神は「私」を愛している。そして、神は「私」が永遠のいのちを持つことを望まれる。*
永遠のいのちとは、三位一体なる神に見られる人格的な愛の交わりが、「私たち」に実現することである。たとえ、この肉体の鼓動が保たれていたとしても、創造主との語り合いがなければ、それは死にながら生きている。私たち人間は、神によって造られ、神によって救われ、神と共に生きる存在だからだ。人とはそういう生きものなのだ。
神無き歩みをする者は、自らの生涯を「さばき」の中で過ごしているとヨハネは言う。さばきとは何なのだろうか。私たちはこの言葉を聞くと、この地上の生涯を走り抜いたときの最後の審判。その時に言い渡される有罪か無罪の判決の情景を思い浮かべるかもしれない。しかし、ここに語られるさばきは、どうやらそれとは違うようだ。永遠のいのちが死後に与えられるものではなく、今、すでにあるように、「さばき」もまた現在においてあるものなのだ。
私たちは誤解している。この地上の生涯は、死後に有罪判決を受けないために、失敗しないように過ごすものなのではなく、今、すでに到来したイエス・キリストと生きるためにある。そうして私たちは やがて御国を全く味わうことになる。
「永遠のいのち」が死後に与えられる不朽の命を直接的に言うのではなく、神との交わりそのものを意味するならば、さばきは、永遠のいのちとは別のいのちの有様を私たちに表しているかもしれない。つまり、「さばき」とは、三位一体なる神から断絶された「闇」との交わりを示していると思われるのだ。
*
神が、そのひとり子をお与えになったほどに「世」を愛されたのに対して、人は光を憎み、「闇」を愛した (3:19)。御子がこの地上に来られた今、私たちは地上で誰を愛するのかが問われている。