2022年12月25日(第52号) | ||
クリスマス礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 小室正彦兄 | |
第2礼拝司会 : | 五十嵐正俊兄 | |
奏 楽 : | 神野真理姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
賛美* | 聖歌623番(1~3節) | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 聖歌623番(4~5節) | |
聖書 | ヨハネの福音書1章14節 | |
説教 | 「受肉したキリスト」牧師 | |
聖餐式 | ||
献金 | 111番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
洗礼式(第2礼拝後) | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「受肉したキリスト」
牧師 齊藤 耕
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」 すなわち、永遠の神、万物の創造者である御子キリストが人となられ、この地上に住まわれたのである。「人」と訳された言葉の直訳は「肉」。敢えて露骨な表現で当時の異端・仮現論者(受肉否定)を一蹴した。使徒ヨハネは、この方を見、声を聴き、手で触れ、この地上をともに歩まれたのである(Ⅰヨハネ1:1)。また、「住まわれた」とは「幕屋を張った」の意味で、ユダヤ人にとっては、荒野を旅したイスラエルの民が「会見の天幕」で栄光に満ちた神の臨在に触れた光景を連想させるものであった。実に、神の御子が人となり、この地上において、私たちとともにおられる(インマヌエル/マタイ伝1:23)のである。使徒ヨハネは、ナザレのイエスに「栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光」であった。それは、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、しもべの姿をとり、私たちと同じ人となり、低きところにくだられたお姿だ(ピリピ2:6)。人として歩まれ、渇くことも、空腹も経験された。人としての痛み苦しみも主イエスとともにあった。
それ故に、主イエスは、この地上で肉において歩み、心において“うめき”続けている私たちの痛み、苦しみ、悲しみを知っておられる。そして同情し、今もとりなし続けてくださっている。
また何よりも、受肉したキリストは、ご自身の十字架の死と復活によって、私たちの死ぬべきからだを生かし、永遠のいのちを与えて、恵みとまことを実現してくださったのである。