Urawa Evangelical Free Church すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイの福音書11章28節
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2023年1月1日(第1号)
新年礼拝
第1礼拝司会 :横田 眞兄
第2礼拝司会 :佐々木孝兄
奏    楽 :臼倉ゆり子姉
前奏
招詞*詩篇100篇1~5節
賛美*539番
祈り
交読文ヨハネの福音書15章1~12節
賛美*11番
牧会祈祷牧師
賛美*262番
聖書ローマ人への手紙3章21~26節
説教「十字架のもとに生きる」牧師
献金338番
頌栄*541番
祝祷*牧師
後奏
報告
献児式(第2礼拝後)
(*の部分はご起立下さい。)

「十字架のもとに生きる」

牧師 齊藤 耕 

 十字架はキリスト教会のアイデンティティである。およそ2000年前のユダヤの地で、キリストは十字架にかかり、ご自分のいのちを捨てられた。しかし、三日目によみがえられた。それから、世々の教会は、十字架のもとに集まり、共に礼拝をささげてきた。
 私たちが見上げる十字架。そこには、どのような意味があるのだろうか。
           *
 キリストの十字架は私たちの罪のための「贖罪」の行為であった。「贖罪」とは、罪からの贖いである。すべての人は罪あるものとして生まれ、その責任を負うものであった。すなわち、死ぬべき存在である。人は皆、罪と死の支配の中に置かれていた。
 しかし、キリストは私たちの罪のために身代わりとなり、神の怒りの対象となられ、律法ののろいのもとに十字架の死を遂げられたのである。それゆえ、罪に対する神の怒りは宥められ、私たちは律法ののろいと、律法違反による刑罰(死)から解放された。すなわち、罪と死の支配から贖われたのである。
 そして、キリストの十字架による贖いは、信じる者を義と認め、神との和解を与えるものであった。「贖い」とは、本来の所有者のもとに買い戻されることである。神は、そのひとり子イエス・キリストのいのちの代価を払って、私たちを罪と死の支配から買い戻し、ご自身のものとされたのである。故に、キリストの「十字架」こそが、キリストの教会を、教会たらしめているものである。

9時25分から第1礼拝をライブ配信します。第1礼拝終了後はその動画(録画)をご覧になれます。


説教の音声をお聞きになれます。
音源(音声ファイル)は上の映像とは別のものです。


【1月の暗誦聖句】
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント人への手紙1章18節)