2023年1月1日(第1号) | ||
新年礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 横田 眞兄 | |
第2礼拝司会 : | 佐々木孝兄 | |
奏 楽 : | 臼倉ゆり子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
交読文 | ヨハネの福音書15章1~12節 | |
賛美* | 11番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 262番 | |
聖書 | ローマ人への手紙3章21~26節 | |
説教 | 「十字架のもとに生きる」牧師 | |
献金 | 338番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷* | 牧師 | |
後奏 | ||
報告 | ||
献児式(第2礼拝後) | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「十字架のもとに生きる」
牧師 齊藤 耕
十字架はキリスト教会のアイデンティティである。およそ2000年前のユダヤの地で、キリストは十字架にかかり、ご自分のいのちを捨てられた。しかし、三日目によみがえられた。それから、世々の教会は、十字架のもとに集まり、共に礼拝をささげてきた。私たちが見上げる十字架。そこには、どのような意味があるのだろうか。
*
キリストの十字架は私たちの罪のための「贖罪」の行為であった。「贖罪」とは、罪からの贖いである。すべての人は罪あるものとして生まれ、その責任を負うものであった。すなわち、死ぬべき存在である。人は皆、罪と死の支配の中に置かれていた。
しかし、キリストは私たちの罪のために身代わりとなり、神の怒りの対象となられ、律法ののろいのもとに十字架の死を遂げられたのである。それゆえ、罪に対する神の怒りは宥められ、私たちは律法ののろいと、律法違反による刑罰(死)から解放された。すなわち、罪と死の支配から贖われたのである。
そして、キリストの十字架による贖いは、信じる者を義と認め、神との和解を与えるものであった。「贖い」とは、本来の所有者のもとに買い戻されることである。神は、そのひとり子イエス・キリストのいのちの代価を払って、私たちを罪と死の支配から買い戻し、ご自身のものとされたのである。故に、キリストの「十字架」こそが、キリストの教会を、教会たらしめているものである。