2023年11月12日(第46号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 熊谷 剛兄 | |
第2礼拝司会 : | 栗原 誠兄 | |
奏 楽 : | 田中美穂姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
交読文 | ヨハネの福音書15章1~12節 | |
賛美* | 7番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 262番 | |
聖書 | マルコの福音書9章30~37節 | |
説教 | 「仕える者の喜び」牧師 | |
献金 | 271番b | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「仕える者の喜び」
牧師 齊藤 耕
弟子たちの間では、「だれが一番偉いか」ということが話題になっていた。そこで、主イエスは言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」主イエスが教えられたことは、神の国に生きる価値観である。それは、人が人の上に立つようなものではない。むしろ、人々の中で最も低いところにあり、仕える者として生かされることである。「仕える」とは、本来奴隷が食卓に仕え世話をすることを意味した。すなわち、他の人が養われ生存するために、自分を差し出して労苦することである。人を上から見ていて出来ることではない。最も低い位置から見て、自分自身をささげてこそなされる働きである。
それから、主イエスは一人の子どもの手を取って、弟子たちの前に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。「だれでも、このような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」 主イエスの目線は子どもとともにあった。当時のユダヤの社会では、子どもは価値の低いものと考えられていたが、主イエスと子どもは一つになられているようであった。「だれが一番偉いか」と論じ合っていた弟子たちには、そのお姿がどのように映ったのだろうか。
最も低いところで、他の人が生かされるために仕えるときに、主イエスとともにあり、神に仕える者として、喜びのうちを生きるのであろう。