| 2024年10月20日(第42号) | ||
| 聖日礼拝 | ||
| 第1礼拝司会 : | 宮崎雅之兄 | |
| 第2礼拝司会 : | 黒羽 徹兄 | |
| 奏 楽 : | 神野真理姉 | |
| 前奏 | ||
| 招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
| 賛美* | 539番 | |
| 祈り | ||
| 主の祈り | 週報をご参照ください | |
| 賛美* | 2番 | |
| 牧会祈祷牧師 | ||
| 賛美* | 313番 | |
| 聖書 | コリント人への手紙第二12章1~10節 | |
| 説教 | 「わたしの恵みは | |
| あなたに十分である」牧師 | ||
| 献金 | 271b番 | |
| 頌栄* | 541番 | |
| 祝祷*牧師 | ||
| 報告 | ||
| 後奏 | ||
| (*の部分はご起立下さい。) | ||
「わたしの恵みはあなたに十分である」
牧師 齊藤 耕
使徒パウロの肉体には一つのとげがあった。それが、何を意味するのかは分からない。しかし、彼を痛め苦しめる弱点となるものだった。*
十四年前に彼は、第三の天にまで引き上げられる経験をした。これを第三者であるかのように語る。そこはパラダイスであり、言い表すことのできない神の臨在に触れるところであった。肉体のままか、肉体を離れてのことか、彼には理解できなかった。忘我的にこの経験に導かれたのだろう。
彼は、この経験を語ることで自分を誇ろうとはしなかった。自分自身が過大評価されたくないからだ。そして、事実この経験は自分のものというよりも、一方的な恵みによる経験であり、本当に第三者のようにキリストにある一人の人として見ていたのだ。
*
肉体のとげは、この経験があまりにもすばらしかったので、彼が高慢にならないように与えられたものだ。しかし、「私を打つためのサタンの使い」とも言われるように、彼にとっては大きな試練であり、その働きを妨げるもののように思われた。だから、取り去ってくださいと願い続けた。
しかし、とげは彼から取り去られることはなく、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」とパウロに語りかけた。このみことばを聴くときに、私たちも、弱さこそ、キリストの力が私をおおい、真の強さに生かされるものと知ることができる。