2024年12月8日(第49号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 横田 眞兄 | |
第2礼拝司会 : | 風間岳志兄 | |
奏 楽 : | 神野真理姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
交読文 | ヨハネの福音書15章1~12節 | |
賛美* | 114番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 313番 | |
聖書 | ヨハネの福音書21章1~19節 | |
(朗読:15~19節) | ||
説教 | 「キリスト者であること(11)」 | |
― イエスの友として ―喜多師 | ||
献金 | 121番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
報告 | ||
後奏 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「キリスト者であること(11)」
――イエスの友として――
副牧師 喜多 大樹
夜が明けようとしている。水面に浮かぶ一艘の小舟には7人の男が乗っている。彼らは師を十字架の上で失った人たちだ。この日彼らは、またもや何も捕れない夜を過ごしている。*
復活された主イエスが彼らに姿を現されたのはこれが三度目であった。
はじめに弟子たちが主を見たのは、あの十字架の惨劇を目の当たりにした三日後。いつ自分たちも師と同じような仕打ちを受けるか分からない。そんな恐怖の只中にいる時だった。この彼らの真ん中にイエスは来て、何を恐れているのかとでも言うように、復活の手と脇腹を示された(ヨハ20・19-23)。
二度目に主が姿を現されたのは、トマスのためであったように思う。一度目の顕現に立ち会えなかった彼は「聞いただけ」では信じられなかった。見て、触らなければ決して信じないと言い張った。そこにあったのは、自分だけ主を見ることができなかった悔しさ、劣等感だろうか。そんな彼に主イエスは現れた。再び真ん中に立ち、両手を広げ、脇腹を指し、触れてみなさいと言った。しかしトマスは触れずに告白した。「私の主、私の神よ」と(ヨハ20・24-29)。
三度目に主が現れたのは、ペテロのためなのではないだろうか。「あなたのためなら、いのちを捨てます(同13・37)」と言っていた彼は、ゲッセマネの夜、イエスを見捨て逃げ去った。彼はきっと本気だった。本当に、ついて行くつもりだったのだ。しかし恐怖が彼をそうさせなかった。彼は恐れに敗北した。ついには三度、「主を知らない」と言った。
*
彼は湖に飛び込んだ。ティベリアの湖畔に立つ主イエスに向かって。そこには食事が整えられ、彼を暖めるかもしれない火が燃えている。パンが裂かれ、主は彼に問いかける。
「あなたは、わたしを愛していますか」
この朝、私たちはこの出来事に「キリスト者であること」を学ぶ。