2024年12月22日(第51号) | ||
クリスマス礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 宮崎雅之兄 | |
第2礼拝司会 : | 梅田典晃兄 | |
奏 楽 : | 小室陽子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
賛美* | 95番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 313番 | |
聖書 | ピリピ人への手紙2章5~11節 | |
説教 | 「キリストの心を心とせよ」牧師 | |
聖餐式 | ||
献金 | 114番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
報告 | ||
後奏 | ||
洗礼式(第2礼拝後) | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「キリストの心を心とせよ」
牧師 齊藤 耕
『汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。』これは、2章5節の文語訳だが、短い言葉が心を打つ。「キリスト・イエスにつくバプテスマ」(ローマ6:3)を受けた私たちは、キリストとの結合により、キリストの死に与り、キリストの復活とも同じように、新しいいのちに歩むものとされている。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのである(ガラテヤ2:20)。
しかし、キリストの心を私の心とするためには、自らが意識的に追い求めなければならない。そこで、使徒パウロはキリスト賛歌を綴りながら、その心を栄光のキリストに向ける。このキリスト賛歌で強調されていることは、キリストが神という身分に固執されなかったということである。神でなくなったのではない。しかし、神としての特権を放棄された。本来、神として崇められ、被造物によって仕えられるお方が、むしろ、しもべの姿をとり、仕えるものとなってこの世に来られたのである。そして遂には、人のために十字架の死にまでも従われるほどに。
私たちは、より高い身分が与えられることを望み、少しでも特権を得たいと願うのではないだろうか。しかし、このクリスマスに改めてキリストの謙卑に思いをひそめ、そのキリストの心を私の心のうちにお迎えさせていただきたいと思う。